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小さい花のミクロの世界へ

小さい花のミクロの世界へ

【小春日和】---(掌説3)

        
【小春日和】

  心筋梗塞の発作で入院したのは、2ヵ月以上も前のことである。突然気分が悪くなって緊急入院したのは、5年前のことになる。あの時は、同じ集中治療室にベッドを並べて入院していた元気そうな患者が、毎日のように物言わぬ姿で運び出されていった。

 死が確実に自分のすぐ横で様子を窺っていることを、実感しないわけにはゆかなかった。

「娘を呼んでくれ、話したいことがあるんだよ。仕事はどうなっているのか、報告が来ないぞ」
 元気そうに看護婦をしかりつけていた患者が、信治がうとうとしているうちに姿を消してしまう。

「あの元気なのはどうした。先に退院か、部屋を移ったのか。」
「亡くなりましたよ。木村さんはおとなしく眠っているから助かっているんですよ。この調子で気を付けて良くなりましょうね。」
 看護婦に言い含められて眠っている間にも、両脇に運び込まれた患者の顔ぶれは、めまぐるしく変わった。多いときには、1日に3人もが、白いシーツを被せられて運び出されるときがあった。

 人の命が、時に、思う以上にあっけないものだということを、骨身に滲みるほど強烈に刻み込まれた入院生活であった。そのときには、3ヵ月あまりの入院で、我が家に帰ることができた。

 その後も軽い発作を何度かおこしながら、幸いなことに大事に至ることがなく、4年近くを平穏に過ごすことができた。ニトログリセリンを多めに持ち、何度かの旅行にも出ることができた。
 2度目の入院は、今年の春のことだった。胸に圧迫感を覚えて、ニトログリセリンを何度か口に含んだが、症状が改善されない。そこで急遽かかり付けの病院に連絡して、車で診察を受けに行き、そのまま入院したのである。
 そのときに担当医は、
「よく間に合いましたね。今度お見えになるときは、心臓が止まって運び込まれるのかなぁ、と思っていたんですよ。」
と、信治の家族に言っていたという。
 さらに、
「入院は今度が最後と思ってください。非常に悪化していまして、今度発作を起こしたときには、手の施しようがないでしょう。」
とも言われたという。

 よほど運が強いのだろう。信治はこの時も、2ヵ月と少しで退院できた。前と違ったのは、旅行に行きたくても、体の自由が利かなくなってしまったことである。自宅周辺を、石垣に手を這わせながらゆっくりと歩く程度のことしか、できなくなっていた。
 急激な体力の衰えは愕然とするほどだったが、自分の年齢を考えればこれも仕方のないことと半分諦めて、日向ぼっこを兼ねて散歩した。

 少しずつ回復に向っていると見えた信治の体調が、突然崩れた。
 前日、いつもよりも少し遠くまで足を伸ばしたせいだろうか。それとも朝の冷え込みが急だったためだろうか。脈拍が早くなり、体の力が抜けて、門まで辿り着いたところで座り込んでしまった。家族がそれをいちはやく見つけてニトログリセリンの蓋を開けてくれたが、もうそれでどうにかなるものではないことを、自身がよく判っていた。
 ためらうことなく救急車を呼んでもらい、病院に直行した。
「今度は、本当に難しいかも知れません。必要な方には、知らせておいてください。すぐにペースメーカーを埋め込みます。助かる可能性は、1割程度でしょう。」
 前に助けてもらい、信治が信頼を寄せている専門医は、家族が納得するように、CT画像や心臓模型を使って、状況の深刻さを説明した。助かれば奇跡のようなものだろう。
 だが、また奇跡はその専門医の手で起こされた。手術と体にとって限界という程の投薬により、一命を取り留めたのである。
 入院中の信治を退屈させまいと、家族は入れ替わり立ち替わり見舞ってくれた。しかしそれで気が紛れるのは、少しの間でしかない。病院食にも飽きて、見舞いの果物にも手が出るようになった。車椅子を押してもらって眺める病院からの風景にも飽きた。何よりも『自分の家に帰りたい。
 自分の家で最期を迎えたい』という気持ちが抑えきれなくなってしまった。
「先生、私はもう助からないんでしょう。最期にひとめ、自分の家を見たいんです。家族は『何も変わりはないから、安心して』というんですが、本当に家が変わりないんだかどうだか。この目で確かめて来たいんです。お願いします。」
「病院にも飽きたでしょう。退院してからの生活に慣れていただくためにも、そろそろ一度、外泊許可を、と考えていたところです。暖い日を選びますから、どうぞお帰りください。でもまだ最初ですから、1泊だけですよ。病院はお厭でしょうが、きっと帰って来てくださいね。ご家族の方にも、私からお伝えしておきます。」
 そうして実現した一時帰宅である。

 信治はすっかり気弱になっていた。また病院に帰れば、二度と自宅に帰ることができないような気がしていた。
 家族と一緒に乗った車は、ゆっくりと自宅へ向かっている。道を歩く見知らぬ人にも、飛び付きたいような親しみを感じた。自分はもうこの道を歩くことはない。この道は、2年前まで自転車で釣りに通った道だ。あの家の入り口に咲く花も、間を擦り抜けたガードレールと電柱も、そのままある。吠えついてきて蹴飛ばしてやった犬は、そのままあそこにいるのだろうか。
 車窓を通り過ぎる光景が、自分が元気だったころの情景と重なり、名残惜しさで気が狂いそうだ。できることなら、それらの一つひとつを確かめながら、現在までかけた時間と同じだけの時間で、別れを告げたかった。
 自宅に向かうだらだらとした昇り坂は、自転車を押して息を切らせながら、釣りの手柄を見せたい一心で頑張ったものだった。
 落ち葉がからからと風に流される歩道を見つめていると、そこにもう一人の自分が見えるようだった。自転車を押している息遣いも聞こえる。家族の誰にも、あの姿は見えていないのだろう。でも、自分には確かに見えている。落ち葉を踏み砕く足音、タイヤの柔らかな感触も、手足に伝わってくる。
 車の中にいながら、心は過去の情景に飛んでいる。
「お父さん、今日は珍しく暖いし、風も弱くて良い日ですね。」
 運転していた息子が、信治の追憶を破って話しかけてきた。
「うん? そうか。病院にいると、暖いのか寒いのか、さっぱり解らなくてな。早いもんだ、俺が入院したときはまだ緑だった欅並木が、すっかり落ち葉になっちまってる。菊がよく咲いてるなあ。」
 信治の声は、僅かに湿っている。
「ちょっとだけ窓を開けて、外の空気を入れましょうか。」
 温室のように暖まった車内に、さっと冷えた空気が流れ込んできた。
 その空気に混じって、煙の匂いがする。この刺激は、昔どこかで毎日のように嗅いでいた懐しい匂い。そう、戦後しばらく体験した、夕暮れになると集落に漂った、風呂を沸かす匂いだ。そして落ち葉炊きの匂いだ。信治は目を閉じて、大きく息を吸い込んだ。
 自宅の庭でも、昔はよく落ち葉炊きをしたものだ。毎日柿の葉が舞い降りて、夕方には掻き集めた落ち葉を燃やした。火の周りには子供が来て、顔を赤く染めて、瞳を煌めかせながら、炎を見つめていた。
 その子供が現在は、自分を車に載せて、自宅に連れて行ってくれようとしている。

 車は、スイッと別の道にそれた。信治は、『新しい道でも見せてくれようというのかな』と軽い気持ちで、青い空を見ながらシートに身体を沈めた。見慣れない道を見る気は、今は起きない。暖くていい気持ちなので、少し眠っていよう。
 すぐに、息子の声で起こされた。
「お父さん、ちょっと寄り道をしましたから。」
「ここはどこだ。」
「うちのすぐ近くだけど、覚えていませんか。すっかり葉が散って寂しくなりましたけれど、今年の春に皆で来た桜並木ですよ。」
 信男も、父の気持ちを察して、家族が共有する記憶をたどれる場所に連れて来てくれたのだ。
「そうか、そうだったな。もう一度花を見たかったな。」
「何を言ってるの、また来ようよ。今までだって精神力で治ったようなものなんだから、『絶対桜を見るんだ』と思えば、お父さんのことだから、きっと良くなるよ。」
「ん、そう思えば良くなるかな。」
 息子の信男が、珍しく強い口調で信治に言葉をぶつけた。いつのまにか子供がしっかり成長していることに、この時始めて気づいたように、息子を見つめた。
「おまえが子供の頃から、この桜を何年見たかなぁ。まだ若木だったのが、こんなに見事になって。俺も齢をとるわけだ。」
「時間と齢は待ったなしだものね。それじゃ家に帰りましょうか。」

 自宅は、信治が入院する前と全く同じ佇まいで、迎えてくれた。道路に伸びた二階の影も、小春日和の光をまぶしく跳ね返す垣根の菊の花も、昨年までと同じだった。近所の家並も、何もかも変わりがない。しんと静まりかえって、信治の帰りを優しく待っていたように思われた。
 門扉に手をかけて、妻の洋子が出迎えている。嬉しそうな表情の内に、寂しげな目が隠れているのを、信治は見逃さなかった。
「お還りなさい。少し家の周りを見ますか。」
 洋子が信治の手をとってくれて、ゆっくりと家を眺めて歩いた。道路のアスファルトから伝わる光の温もりが、足の裏を暖める。
 菊の葉の裏に、緑色の虫がクルリと姿を隠す。キリギリスだろうか。
『あいつと俺と、どっちが長生きできるかなあ』

 信治は石垣の暖さを確かめるように、じっと背中を押しつけた。洋子も並んで、石垣に背中を任せていた。

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